みんな知っている、あの物語

f:id:kuromekawa28:20150813100759j:plain角川文庫版

 「不思議の国のアリスルイス・キャロル原作のこの物語、映画にもなりました。

姉と2人で土手に座っているアリス、<アリスは、なんだかとってもつまらなくなってきました>という書き出しです。<暑い日だったので、すごく眠たくて>ぼうっとしていたら、白ウサギの姿が目に入った。

 

 トランプの女王の法廷に立たされ「あなたたちみんな、ただのトランプじゃないの!」と叫ぶアリス、その瞬間、すべてのトランプが空中に舞い上がる。

<きゃっとさけんでトランプをはらいのけようとした>ところ、<ふと気がついてみると川べりでお姉さんのひざまくらで寝ているのでした>。姉はアリスの顔にかかった枯れ葉をはらいのけてやるのでした。

 

 目の前の退屈な現実が目を閉じれば不思議な国に変わる。ウサギの通り過ぎる音は草のざわめき、茶会でティーカップが鳴る音はヒツジの首についた鈴、女王の叫び声は羊飼いの少年の声などなど、トランプが枯れ葉だったのと同じなのです。

 

 妹は将来どんな大人になるだろうと姉は考える。自分の子どもたちに不思議の国での体験を話して聞かせるかもしれない。<子どもたちの無邪気な喜びや悲しみに一喜一憂しながら、きっと思い出すことでしょう。自分自身の子ども時代を、そしてあの幸せな夏の日々を>物語の秘密を握る姉の存在、でもなぜ母ではなく姉なのか?

 

 アリスの母は怖い人だったとか、その母親像はあの理不尽なトランプの女王だったのかもしれない。 

人生はいつでも自由でありたい

f:id:kuromekawa28:20150807120643p:plain新潮文庫

<はじめてチャールズ・ストリックランドを知ったとき、僕は、正直に言って、彼が常人と異なった人間だなどという印象は、少しも受けなかった。だが、今日では彼の偉大さを否定する人間は、おそらくいまい>という書き出し、小説はストリックランドの死後からはじまり、作家の「僕」が知人であったストリックランドの人生を回想する形式で進行する。その作家とは、かの有名なモームだ。

 

17年も連れ添った妻を捨てても、友人から奪った愛人が自殺しても動じないストリックランド、画業にまい進する彼にとって生活は二の次、女は邪魔者である。後にタヒチに移住した彼は、そこでも新しい妻と子を得て創作に励む。画家ゴーギャンの生涯に光を当てた作品、平凡な証券マンだった彼は40歳にして突然、妻子を捨ててロンドンからパリに出て画家になると宣言する。

 

末尾の一文<彼はすばらしい本場牡蠣が十三も、たった一シリングで買えた時分のことを思い出していたのである>かって「貧者の食材」ともいわれ、二束三文だった天然牡蠣は19世紀半ばに海洋汚染の影響などで激減した。以後、「王室ご用達の牡蠣」と呼ばれる高級食材になった。まるで生前には評価されず、死後に高値がついたストリックランドの絵みたいだ。消費社会は残酷である。

 

ラストは僕がストリックランドの死後、彼の最初の妻を訪ねる。彼女は亡き夫の絵を飾り、天才の妻には夫の業績を広める義務があると語った。

画家が書いた絵ではない滞在記

f:id:kuromekawa28:20150802101910j:plainちくま学芸文庫

 ポール・ゴーギャンといえば、あの画家かと知っている人は多いはずだが、このような滞在記を書いていると知っている人はいないはずだ。彼は1891年6月から93年6月までタヒチに滞在し、約50点の絵画を制作した。その経験を綴ったのがこの滞在記だ。

 

 「ノアノア」とはタヒチ語で「かぐわしい香り」という意味だそうだ。

 

物語は63日間の航海の後、船がタヒチに到着するところからはじまる。ヨーロッパ化されたタヒチに当初失望した彼は、中心部から離れた場所に住まいを借りて、徐々に土地の暮らしや風習になじんでいった。それはヨーロッパ人のひとりの男が文明の衣を脱ぎ捨て野生を獲得するまでの魂の遍歴を描いたものだろう。

 

しかし、中身はやけに官能的である。彼はもうほとんど現地の女しか見ていない。文明に染まった最初の愛人、彼を見舞う王女、肖像を描きたいという求めに応じた娘、そして妻となる13歳の少女テウラなどなどである。

 

しかし、そういう男は必ずいつかは母国に帰る。フランスに戻る日が来て、岸壁を離れる船の甲板から涙にくれるテウラを見る。そして、<御身ら、南と東の軽やかな微風よ>という呼び掛けではじまるマオリの詩を思い出す。<急ぎ連れ立って別の島へ駆けよ。そこに、私を捨てた男がいるはず、気に入りの木蔭に腰掛けて。告げよ、その男に、私が涙にくれているのを見たと>。一見ロマンチックにも見えるようだが、そこには宗主国と植民地の力関係がはっきりと刻印されている。

 

 女の視点に立った詩で最後を締めくくる。芸術家というのはいい気なものだと感心する人もいるかも知れない。

 

 

 

今の時代には、実に新鮮な恋愛物語

f:id:kuromekawa28:20150730200307j:plain岩波文庫

 若い人には新鮮に映る明治の大ベストセラーが、この徳富蘆花作の「不如帰」だ。

 

その冒頭は<上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり>と紹介される主人公は浪子という女性。陸軍中将・片岡毅の娘である。彼女の夫は海軍少尉・川島武男、結婚したばかりのふたりは、いわば新婚旅行で伊香保温泉に来ているのだ。

ところが、浪子はやがて肺結核を患い、武男の航海中に川島家を離縁されてしまう。引き裂かれたふたり「ああつらい!つらい!もうーもう婦人(おんな)なんぞにー生まれはしませんよ。ーあああ!」という言葉を残して死んで行く。夫婦なのに純愛の場面。夫婦なのに悲恋の場面。不治の病と家制度に阻まれた明治時代のラブストーリーの展開である。

 

このラストはどうなるのか。出張先から戻り、浪子の死を知って青山墓地を訪れた武男の前に浪子の父・片岡中将があらわれ、肩をたたいて言う。「武男君、浪は死んでも、な、わたしはやっぱい卿(あんた)の爺(おやじ)じゃ。しっかい頼んますぞ。ー前途遠しじゃ。ーああ、久しぶり、武男さん、いっしょに行って、ゆるゆる台湾の話でも聞こう!」なぜ直前の<互いに手を握りつつ、二人が涙は滴々として墓標の下に落ちたり>で終わらず、このような会話になったのか?

 

片岡中将も武男も軍人である。時は日清戦争の頃で富国強兵の時代、いつまでもめそめそしていたら男がすたるとでも言うのか。当時の国民新聞で「不如帰」の連載がはじまった1898年は、折りしも明治民法の「親族」の項が公布され、一夫一婦制が制度としてはじめて確立した年だった。この純愛モードのふたりは、この民法に沿ったカップルだったのだ。

 

女優は、この人の自伝

f:id:kuromekawa28:20150723184056j:plain新潮文庫

 今回の自伝の女優は、表題にもある高峰秀子さんです。

おの日記はいきなり母の話から始まる<私の母は、今年七十四歳である。母の唯一の誇りは天皇サマ(昭和天皇)と同じ年であること、そして最大の悲しみは一人娘の私が育ちすぎて手に負えなくなったことらしい>と、この母はもともとは秀子の叔母だった。

4歳で、芸能ブローカーのような仕事をしていた養父と活動弁士だった養母の養女になった秀子は、5歳で松竹のオーデションを受けて子役になった。この母の活動弁士時代の芸名が「高峰秀子」だったそうなのだ。

上巻で描かれるのは、秀子の少女時代で、生家の父、特異な養母に加えて彼女を養女にしたいと望んだ大物歌手の東海林太郎など複雑な家庭環境と大人に囲まれた仕事でろくに学校に通う時間もなかった秀子だった。30歳になるまで二ケタの掛け算ができず、国語辞典を引いたこともなく<子ども心にも「自分は一家の働き手」であることをうっすらと感じはじめていた>。

天才子役から人気女優になった人の自伝的エッセイとは思えない内容と筆致、秀子の筆は冴え渡り、自身の境遇のみならず、戦前、戦中から戦後に至る社会の変化もきっちりと書き込んでいる。<男たちは戦争をした。男たちは戦争に負けた。自業自得である。ワリを食ったのは女たちである>と敗戦直後の感慨を述べている。

木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」や「二十四の瞳」など、下巻では20代の女優に成長した秀子の姿が描かれ、30歳での松山善三との結婚で幕を閉じて、最後にまた母の話に戻る。<長い間のつきあいである。そして、まだまだ続く「母と娘」の縁である。/ 私の口の中に、まだ「親知らず」は生えていない>自伝を書く上でどうしても避けて通れなかった母との確執である。

女優のエッセイがテレビドラマに

f:id:kuromekawa28:20150719210734j:plain河出文庫

 見たことありますか?この名女優を、昭和の名脇役として女優であり随筆家でもあった沢村貞子さんです。「貝のうた」は、彼女の自伝的エッセイで少女時代を描いたもので、NHKの朝の連続テレビドラマ「おていちゃん」の原作になりました。

 

自身への夢を託して子どもは全員役者にすると決めていた父、兄は沢村国太郎、弟は加東大介、甥っ子は長門浩之と津川雅彦という俳優一家です。子役としてその道に入った兄や弟と違い、貞子は芝居は嫌いで学校が好きという。家庭教師をしながら女学校に通い、円本を読みあさり、教師になることを夢見る文学少女だった。

 

日本女子大まで進むが、ささいなことで教師に幻滅し、女優になろうと決心する。女子大に通いながら、山本安英のつてで新劇の研究生になった。ところがその劇団はプロレタリア演劇活動に傾斜していて、貞子もまた治安維持法違反で特高に逮捕されてしまった。

 

この本の中心を占めるのは23歳から通算1年8ヶ月にわたる凄惨な獄中生活である。不当な尋問、孤独な毎日、そして拷問など。懲役3年、執行猶予5年の判決が下りて釈放された彼女は振り返る。<働くものに幸福を・・・ということばに共鳴したけれど、私にほんとうに「働くもの」の気持ちがわかっていただろうか>、波乱万丈の前半生である。

 

釈放後は仕事も無く、兄を頼って映画界に飛び込んだ貞子は、ようやく脇役女優としての道を見つけるが、次に待っていたのは戦争だった。女学校時代には関東大震災に、戦時中には興業先の大阪で空襲にあった貞子、ラストは45年8月15日の終戦の光景である。<とうとう、また生きのびた。戦争は終わった。日本は敗れた>と書く、しかし最後の一文は<あちこちの窓から、ほんとうに何年ぶりかで、あかるい光がパッと輝いていた>と、なにげない文章に込められた開放感が湧いて出た素晴らしい幕切れである。

 

国の底辺を支える人がいなくなれば国は亡びる

f:id:kuromekawa28:20150713123409j:plain中公文庫版

 いまの日本では、誰しも目立ちたがり屋で物事に楽をして金を求める人たちが増えている。かって、元東京都知事の石原氏が「最近のテレビは、お笑いとグルメ、セックスばかりだ」と嘆いたことがあったが、社会的に影響の大きいマスコミ業界が世の中の流行を作り出し、世間をその方向へと誘導する危険性を指摘した。

この本は、そうした風潮への警鐘を鳴らしたようにも思える内容が多くある。

作者は、福島県生まれの吉野せい、70歳を過ぎて筆をとった随筆集だけに彼女の人生そのものとも言える。16編の随筆集で構成され、何代記が綴られていてこの1冊で有名作家になった。

<ノボルはかぞえ年六つの男の子である>という書き出し、21歳で詩人の三野混沌(本名・吉野義也)と結婚し、阿武隈山麓の開拓農家として夫とともに梨づくりに精進する一方で6人の子どもを育てた。表題は幼い息子の話で、妹を背中にくくりつけているため仲間と遊べないノボルが、ある日ヨーヨーが欲しいと言い出した。家計が苦しく<初めてねだったいじらしい希望>をかなえてやれないせいは、来年学校に上がったら帽子もカバンも本も買ってやるからと諭すが・・・。

1歳前に逝った娘、移り行く季節と農作業、炭坑の出水事故で死んだ男性、特高に目をつけられていた夫など戦争を挟んだ山村の暮らしの描写は新鮮だが、いかんせん文章が古い。文学的な技巧を凝らした骨董的な文章は、結婚前に山村暮鳥の指導を受け、夫の死後、同郷の草野心平に「あんたは書かなければならない」と命じられた彼女の文才だが、最終章には「私は百姓女」でと書く。

<この空の下で、この雲の変化する風景の中で、朽ち果てる今日まで私はあまり迷いもなかった>と。<それは、さんらんたる王者の椅子の豪華さにほこり高くもたれるよりも、地辺でなし終えたやすらぎだけを、畑に、雲に、風に、すり切れた野良着の袖口から突き出たかたい皺だらけの自分の黒い手に、衒いなくしかと感じているからかも知れない>農に生きた人生に悔いなしと誇り高く宣言する。