愚にもつかない男女の情痴話
岩波文庫版
岩野泡鳴といえば、自然主義台頭期の作家として非常に有名だが、この「耽溺」は出世作ともなった異色作である。
あみ
書き出しは<僕は一夏を国府津の海岸に送ることになった>と、相模湾に面した国府津(現在の小田原市)を舞台に、妻子持ちの作家の「僕」こと田村とこの地の芸者・吉弥とのぐだぐだした関係を綴っていく。
「女優にしてやる」という甘言で彼女を釣るも金の工面ができず、妻に着物の質入を命じる田村、他にも身請けを約束した男が複数いることをちらつかせつつ、実の母ともども彼にたかれるだけたかる吉弥も吉弥だ。
愚にもつかない男女の痴話話が、なぜ文学史に名を残したのか、それはこの小説が「一元描写」といわれる手法で、「僕」という一人称で知り得たことだけを書くスタイルを取り入れているからだ。語り手の主観が自在に書ける。<妻が焼け半分の厭みったらしい文句ばかりを云って来る>とか、<僕はなけなしの財布を懐に、相変らず陰鬱な、不愉快な家を出た>とか云いたい放題の内容だ。
終盤、吉弥は性病由来とおぼしき眼病を患い、妻は夫の放蕩と金策に疲れ果てて病に伏す。「僕」は<復讐に出かける様な意気込み>で東京で療養中の吉弥を訪ねるが、すでに同情心のかけらもない。<「先生、私も目がよけりやァお供致しますのに・・・」僕はそれには答へないで、友人と共に、/ 「左様なら」を凱歌の如く思って、そこを引きあげた>。
ひとりよがりな男と小ずるい女の泥臭い痴話争いを描いた内容、あなたはどう思う?