今の殺伐たる世相はこれと同じなのか

新潮文庫版 <ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した>、ご存知フランツ・カフカの「変身」の冒頭部がこれだ。 意識は人間のまま、視覚も聴覚ももとのままなのに、身…

中公文庫版 「この苦しみは体験した者にしかわからない」というのは、戦争体験者がよく口にする言葉だ。その通り、戦争を知らない自分たちが体験者の言葉のすべてを理解することは難しい。ところが、それでも時に彼らが過ごした日常と自分たちが過ごす「今」…

一歩間違えると、大変な世の中だ

角川文庫版 オーウェル作「動物農場」は、旧ソ連のスターリン時代の独裁者を寓話風に批判した20世紀版イソップ物語である。 <荘園農場のジョーンズ氏は、夜、鶏小屋の戸締りをしたが、すっかり酔っ払っていたので、つい、くぐり戸を閉め忘れてしまった>…

アジアを旅して非日常を感じる

新潮文庫 小林紀晴著の「アジアン・ジャパニーズ」は、ある日本人による発信だ。 2002年夏に、私はタイのバンコクの安宿にいた。3畳ほどの部屋のベッドに横になり、天井の扇風機を眺めながら「旅の日常に埋没していくんだ」という言葉を思い浮かべる。バブ…

赤いカーテンに包まれた体制下の学校で何があったのか

集英社文庫版 1960年台のチェコの首都プラハにあったソビエト大使館付属の8年制普通学校で、ダンスを教えていた女性教師の人生が描かれているサスペンス溢れる長編小説だ。 この「オリガ・モリソヴナの反語法」という題名からして、いかにもロシア通の作で…

これを中国人はどう見る?

新潮文庫版 パール・バックのあの有名な大河小説、学生たちへの推薦書ともいうべき物語だったが現代人はどのように感じるだろうか。否、今の日本人こそどう思うのか興味が深い。 貧農から地主までに成り上がった一代目、父が残した財産を元手にそれぞれ勝手…

昔の物語には知恵があるようだ

小学館文庫版 浜田廣介作の「泣いた赤おに」には、多くの謎も含んでいる作品といわれている。 人間と仲良くなりたい赤鬼が戸口の前に立て札を出した。その内容はこうだ「ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。/ ドナタデモ オイデ クダサイ」と。ここには、お…

身に覚えがある貴方、気をつけましょう

講談社文芸文庫版 お互いに好きで一緒になったはずなのに、こんなはずじゃなかったという中年夫婦、その会話はあまりに生々しく、読者は読みたい、いやもう止めてとも迷うかも。 物語の発端は、妻の時子が年下の米兵・ジョージと関係を持ったことからだった…

貧困とは、こんなに凄まじい人生なのだ

新潮文庫版 ゾラの代表作「居酒屋」は、日本の自然主義ともいえる人間の姿を写実的に描いたものである。 主人公のジェルヴェーズは22歳、8歳と4歳の息子の母、洗濯女で生計を立てていたが、内縁の夫のランチェが失踪してブリキ職人のクーポーと結婚する。ま…

戦争の残虐さの極みを暴く

新潮文庫版 舞台は知床、一見すると紀行文のようにも思える書き出しだが、読み進むうちにとんでもない方向へと行く奇妙な不気味さを含んだ作品である。 <私が羅臼を訪れたのは、散り残ったはまなしの紅い花弁と、つやつやと輝く紅いその実の一緒にながめら…

もうひとつの童話はこうなっている

岩波文庫版 童話の「赤ずきん」といえば、誰でも知っているおとぎ話だが二つのバージョンがあるとは知らなかった人も多いのではないだろうか。それはペローとグリム兄弟のもので、その結末はまるで逆なのだ。 猟師がオオカミの腹を割き、赤ずきんとおばあさ…

あの忌まわしい原爆の体験

永井隆の「長崎の鐘」、歌にもされて長く歌われ続けている。 被爆体験を取材したノンフィクションだけに、GHQの検閲で条件付で出版されたいわく付きのベストセラーとなった。 <昭和二十年八月九日の太陽が、いつものとおり平凡に金比羅山から顔を出し、美し…

愚にもつかない男女の情痴話

岩波文庫版 岩野泡鳴といえば、自然主義台頭期の作家として非常に有名だが、この「耽溺」は出世作ともなった異色作である。 あみ 書き出しは<僕は一夏を国府津の海岸に送ることになった>と、相模湾に面した国府津(現在の小田原市)を舞台に、妻子持ちの作…

旅行記として秀逸な記録を見て

中公文庫版 武田百合子作のこの目を惹く題名の下にあるロシア旅行、これがこの本の内容のようです。それも、「昭和44年6月10日 晴」という書き出しで始まっているので、旧ソ連への旅行です。 <横浜大桟橋に九時十五分前に着く。/ ハバロフスク号は真白い船…

今こそ眼を向ける必要がありゃせぬか

講談社学術文庫版 副題は「地球志向の比較学」と言うそうだが、この鶴見和子作の「南方熊楠」という本は1990年代のはじめ頃には出版界で一大ブームを引き起こした。 南方熊楠といえば、植物学にも民俗学にも通じ、粘菌の研究などで知られる人物、19歳で渡米…

一足早いのですが、準備はどうですか

集英社文庫版 世界の今に、もう一度見てもらいたいクリスマスの原点とも言える物語です。 あまりにも有名なイギリスの作家ディケンズの「クリスマス・キャロル」です。クリスマス・イヴの晩に、ケチで強欲で冷酷なスクルージのもとに7年前に死んだ共同経営…

上方の人情喜劇の原型

新潮文庫版 大阪の大阪らしい織田作之助の名作。一銭天ぷら屋を営む両親の話で、主人公はその娘の蝶子だ。<年中借金取りが出入りした>という書き出しから、商売の状況も見えて来る。 曽根崎新地の芸者になった蝶子、大正12年に化粧品問屋の息子で妻子持ち…

奇想天外な仏教にまつわる物語

岩波文庫版 ここにある「西遊記」は、これまで多くの人に読まれ、マンガにもされた孫悟空というサルが主人公の物語、本当の主人公は玄奘三蔵というお坊さんが16年にわたる旅をするものだ。このお坊さんは唐の時代の実在の人物、天竺(インド)への旅をして長…

社会派推理小説の傑作

新潮文庫版 舞台の設定は1947年、<海峡は荒れていた>という始まりから海難事故の概要をたどることになる。正確には9月26日、折からの台風で青函連絡船洞爺丸が沈没する。死者は最終的に1000人を超す大事故となった。その同じ日に、北海道岩内町で死者35人…

世の男たちに告ぐ警告を読んで見たら

新潮文庫版 日本近代文学の祖ともいわれている二葉亭四迷の「浮雲」は、初の言文一致体の小説とされる。 小説は<千早振る神無月ももはや跡二日の余波(なごり)となった二十八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞ…

舞台や映画で有名な悲恋の物語

新潮文庫版 「切れるの別れるのって、そんなことはね、芸者のときにいうものよ」というセリフ、聞いた人は多いかも知れない。ご存知、泉鏡花作の「婦系図」の一節、元芸者のお蔦が湯島天神で言うセリフである。 主人公の早瀬主税は恩師の酒井俊蔵の下でドイ…

みんな知っている、あの物語

角川文庫版 「不思議の国のアリス」ルイス・キャロル原作のこの物語、映画にもなりました。 姉と2人で土手に座っているアリス、<アリスは、なんだかとってもつまらなくなってきました>という書き出しです。<暑い日だったので、すごく眠たくて>ぼうっとし…

人生はいつでも自由でありたい

新潮文庫版 <はじめてチャールズ・ストリックランドを知ったとき、僕は、正直に言って、彼が常人と異なった人間だなどという印象は、少しも受けなかった。だが、今日では彼の偉大さを否定する人間は、おそらくいまい>という書き出し、小説はストリックラン…

画家が書いた絵ではない滞在記

ちくま学芸文庫版 ポール・ゴーギャンといえば、あの画家かと知っている人は多いはずだが、このような滞在記を書いていると知っている人はいないはずだ。彼は1891年6月から93年6月までタヒチに滞在し、約50点の絵画を制作した。その経験を綴ったのがこの滞在…

今の時代には、実に新鮮な恋愛物語

岩波文庫版 若い人には新鮮に映る明治の大ベストセラーが、この徳富蘆花作の「不如帰」だ。 その冒頭は<上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり>と紹…

女優は、この人の自伝

新潮文庫版 今回の自伝の女優は、表題にもある高峰秀子さんです。 おの日記はいきなり母の話から始まる<私の母は、今年七十四歳である。母の唯一の誇りは天皇サマ(昭和天皇)と同じ年であること、そして最大の悲しみは一人娘の私が育ちすぎて手に負えなく…

女優のエッセイがテレビドラマに

河出文庫版 見たことありますか?この名女優を、昭和の名脇役として女優であり随筆家でもあった沢村貞子さんです。「貝のうた」は、彼女の自伝的エッセイで少女時代を描いたもので、NHKの朝の連続テレビドラマ「おていちゃん」の原作になりました。 自身への…

国の底辺を支える人がいなくなれば国は亡びる

中公文庫版 いまの日本では、誰しも目立ちたがり屋で物事に楽をして金を求める人たちが増えている。かって、元東京都知事の石原氏が「最近のテレビは、お笑いとグルメ、セックスばかりだ」と嘆いたことがあったが、社会的に影響の大きいマスコミ業界が世の中…

同じ作家とは思えない、この対極にある作品

新潮文庫版 作家はトルーマン・カポーティという人、これが代表作とのことだがあの有名な映画化作品「ティファニーで朝食を」という作品も彼の作品なのだ。 1959年11月、カンザス州ホルカム村で一家4人が惨殺された。その4人とは、大農場主のクラッター氏、…

時代に翻弄された女優

新潮文庫版 李香蘭こと山口淑子の波乱万丈な回想録を描いたのがこの本である。 藤原作弥との共著になっているが、題名通り山口淑子の半生記であり、彼女が生まれてから終戦を迎えて日本へ引き揚げるまでを描いたものとなっている。 1920年、淑子は中国遼寧省…