今の殺伐たる世相はこれと同じなのか

f:id:kuromekawa28:20160727132743p:plain新潮文庫

 <ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した>、ご存知フランツ・カフカの「変身」の冒頭部がこれだ。

 

意識は人間のまま、視覚も聴覚ももとのままなのに、身体や言葉は自由にならないグレーゴル、家族は彼を気味悪がり、最後に彼は死んでしまう。わが身を不本意と感じながらも、どうすることもできない主人公、変わってしまった彼を持て余し、おろおろする母、リンゴを投げつける父、食事だけは運びながらも徐々に世話をしなくなる妹。

 

今の時代を投影したような引きこもりの少年、うつ病のサラリーマン、そして寝たきりの高齢者などと符合する。

 

ある日、グレーゴルの両親と妹は数ヶ月ぶりに親子3人で外出する。電車の中で娘が美しく成長していることに気づいた両親は<この娘にも手ごろなお婿さんを捜してやらねばなるまい>と考える。そして<降りる場所に来た。ザムザ嬢が真っ先に立ち上がって若々しい手足をぐっと伸ばした。その様子は、ザムザ夫妻の目には、彼らの新しい夢とよき意図の確証のように映った>。

 

手足を伸ばす妹は、寝床の中でうごめく足を発見したグレーゴルとは対照をなす。

つまり、「厄介払い」の後に訪れた新しい希望なのか、この解放感が身に覚えのある人たちもいるかも知れない。

f:id:kuromekawa28:20160719150930j:plain中公文庫版

 「この苦しみは体験した者にしかわからない」というのは、戦争体験者がよく口にする言葉だ。その通り、戦争を知らない自分たちが体験者の言葉のすべてを理解することは難しい。ところが、それでも時に彼らが過ごした日常と自分たちが過ごす「今」が重なる瞬間に出会うのだ。

 

 著者は23歳のとき、戦時下にありながら、今の若者に通じる感性で多くの詩を残し、無名のまま23歳で戦死した詩人、竹内浩三の詩と出会う。

「オレは日本に帰ってきた

 帰ってきた

 オレの日本に帰ってきた

 でも

 オレには日本が見えない」という詩だ。

当時の衝撃を著者はこうも書いている。「<かっての戦争>という僕にとってはひどく曖昧な出来事が、自分にも切実な何かであるような気分になった」と、まるで彼の人生を追体験しているようだ。姉の松島こうの思いとともにその半生を綴り、彼の詩を伝えようとする人々の姿を描いていく。

 

 70年以上前に書かれた浩三の詩は、今を生きる私たちが、日常で悶々と抱える悩みや思いと驚くほどつながる「言葉」に溢れている。そして、彼の言葉に、戦争の記憶を若い世代が引き継いでいくための大きな可能性を感じた。

 

 この国も、戦争を知らない多くの世代が豊かさを享受している。それが刹那的でないことを願いながら、この言葉を噛みしめてもらいたいと思う。

 

一歩間違えると、大変な世の中だ

f:id:kuromekawa28:20160706194620j:plain角川文庫版

オーウェル作「動物農場」は、旧ソ連スターリン時代の独裁者を寓話風に批判した20世紀版イソップ物語である。

 

<荘園農場のジョーンズ氏は、夜、鶏小屋の戸締りをしたが、すっかり酔っ払っていたので、つい、くぐり戸を閉め忘れてしまった>。これが動物たちの革命の始まりである。虐げられた動物たちは農場から人間を追い出すことに成功して、自らの手で農場を運営する権利を奪う。農場の名は「動物農場」と改め、理想的な未来へ向けて動き出すはずだった。

 

ところがリーダー格の2頭のオス豚の路線が対立、権力闘争に敗れた1頭が追放されてから事態は悪化してゆく。特権階級と化した豚(政治家?)、その手下となった犬(官僚?)、牛、馬、羊、山羊、鶏ら(民衆?)、その地下層の動物や鳥たちは独裁者の下で過酷な労働を強いられるが、次第にそれにも慣らされていく。

 

ラストはどこかの国を連想させる。気がつけば革命の理念は書き換えられ、豚たちはかって追い出したはずの人間とトランプゲームに興じているではないか<屋外の動物たちは、豚から人間へ、また、人間から豚へ目を移し、もう一度、豚から人間へ目を移した。しかし、もう、どちらがどちらか、さっぱり見分けがつかなくなっていたのだった>。この物語が教訓的なのは発電用の風車がモメゴトの焦点になっている点である。

風車さえ建設すれば幸福になれると信じる動物たちは、気の毒なのか愚かなのか、支配者の狡猾さもさることながら、被支配者の従順ぶりが凄まじい。

 

新大統領の誕生に熱狂したどこかの国、政権交代に沸いたどこかの国、各々方決して油断免さるなよ!

アジアを旅して非日常を感じる

f:id:kuromekawa28:20160425121429j:plain新潮文庫

 小林紀晴著の「アジアン・ジャパニーズ」は、ある日本人による発信だ。

2002年夏に、私はタイのバンコクの安宿にいた。3畳ほどの部屋のベッドに横になり、天井の扇風機を眺めながら「旅の日常に埋没していくんだ」という言葉を思い浮かべる。バブルの余韻が残る1991年、23歳で新聞社を辞めた著者は、ザックに240本のフィルムを入れてアジアへと旅立った。

 アジアの喧騒を感じさせない静かで繊細な写真、優しい眼差しと不器用さが滲む文章に強烈に惹かれる。

 7年後、私はインドシナ半島を旅していた。終わりを決めない初めての旅は、自分が日本人だと感じずにはいられない旅でもあった。フィルムからデジカメへと変わり、ネットの普及で、世界の情報をリアルタイムに簡単に入手できる。あの頃のアジアと今は違う。著者が出会ったような日本人の居場所は、今もそこにあるのだろうか?

 それでも、彼の描く旅は色褪せていない。

 旅を終えた著者の言葉が今を生きる私たちに語りかけているようで、妙にしっくりと来る。「嫌だったら、逃げればいいのだ。一生、逃げ続けたっていいのだ」逃げた先に答えがあるとは限らない。それでも「逃げる」という選択肢があってもいい・・・。

 

 窮屈な日本社会から飛び出し、アジアへ向かうことも、部屋でバーチャルな世界にのめり込むことも、案外同じなのかと思うかも知れないが体験は貴重な財産かも知れないよ。

 

赤いカーテンに包まれた体制下の学校で何があったのか

f:id:kuromekawa28:20160413185006j:plain集英社文庫版

 1960年台のチェコの首都プラハにあったソビエト大使館付属の8年制普通学校で、ダンスを教えていた女性教師の人生が描かれているサスペンス溢れる長編小説だ。

この「オリガ・モリソヴナの反語法」という題名からして、いかにもロシア通の作である米原万里らしい小説に思える。オリガ・モリソヴナというのが自称50歳の女性、子供の目からは70歳にも80歳にも見えるのだが、オールド・ファッションの衣装に身を包み、髪は金髪に染め、真っ赤な口紅とマニキュアという度肝を抜くようないでたちなのだ。

日本人の生徒としてこの学校にいた弘世志摩は彼女に魅了されていたのだが、オリガは同僚のフランス語教師のエレオノーラ・ミハイロヴナとともに、ある日突然、解雇されてしまう。

それから約30年、ソ連崩壊後の1992年、大人になった志摩は、かっての同級生のカーチャとの再会を果たし、オリガとエレオノーラの消息を訪ね始める。ふたりの前半生にはスターリン時代のラーゲリ強制収容所)に絡む重い歴史が隠されていた。

反語法とはオリガ独特の表現方法で、「まあ天才!」「震えが止まらなくなるような神童!」「想像を絶する美の極み!」といったいずれも逆説的な悪罵なのだ。28年ぶりに再会した志摩とカーチャも言い合う「ずいぶん痩せたんじゃない!」と。

 すべてを知った後、ラストで志摩とカーチャはひとつの重大な事実に気づく。

<オリガ・モリソヴナの全てが反語法だったのだなとも思えてくる><まるで喜劇を演じているかのような衣装や化粧や言動>は<悲劇を乗り越えるための手段だったのだ>と。「おーい、絶体絶命だぞ!」と、飛行機の時間が迫る中で、タクシーの運転手が叫ぶ。<志摩はカーチャとともに車に向かって走り出した>

 

 反語法なら「絶体絶命」は「まだ間に合う」の意味なのだ。

これを中国人はどう見る?

f:id:kuromekawa28:20160312162807j:plain新潮文庫

 パール・バックのあの有名な大河小説、学生たちへの推薦書ともいうべき物語だったが現代人はどのように感じるだろうか。否、今の日本人こそどう思うのか興味が深い。

 

貧農から地主までに成り上がった一代目、父が残した財産を元手にそれぞれ勝手な生き方を選ぶ二代目、軍人として出世した父への反発から自由な道を求める三代目と、辛亥革命前後の中国を舞台に一族の生き様を描いた長編小説である。

 

 男女関係のケーススタディとして興味深い第1部と第2部の始まりから、第3部は今の日本人の若者にも当てはまる内容かも知れない。主人公の王龍は貧しさゆえに女奴隷だった阿蘭をもらい受けて結婚した。妻の才覚のおかげで財をなしたくせに、強権的で第二夫人にうつつを抜かす。三男の王虎は家を出て武将となるが、好きな女を父に奪われたことで女嫌いとなり、放蕩の末に一度に2人の妻をめとる。粗野な祖父、血の気の多い父と比べて、その次の王淵はぐっと軟弱な草食系の男子で、戦争が嫌いで農業が好きという人物、留学先のアメリカから帰国した後、いとこの誘いで革命軍に加わったりするが悩んでいるばかり、そんな王淵の前に現れたのが美人で清楚な医師を志す女性・美齢だった。

 

「今、僕がしたのは外国の習慣です。あなたが、いやなら・・・」と、これは王淵が美齢にキスをしようとした場面である。言い訳する王淵を美齢はさえぎる。

「外国の習慣でも、悪いことばかりじゃありませんわ!」舞い上がる王淵、<いったい、さっき、おれは何を恐れていたのだろう? /  「僕たち二人は」と彼は言った。「僕たち二人は・・・僕たちは、何も恐れる必要がないんだ」>。このとき父は危篤で、王淵は土地を受け継いで農業に生きることに憧れと恐れを抱いていたのだ。

 

 その恐れが、この一件で氷解したようだ。あぁ、恋愛の勝利とはかくも強い人間をつくるのか、愛は何ものにも勝るという例でした。

昔の物語には知恵があるようだ

f:id:kuromekawa28:20160305191322j:plain小学館文庫版

 浜田廣介作の「泣いた赤おに」には、多くの謎も含んでいる作品といわれている。

 

 人間と仲良くなりたい赤鬼が戸口の前に立て札を出した。その内容はこうだ「ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。/  ドナタデモ オイデ クダサイ」と。ここには、おいしいお菓子もお茶もございます。とも書いたのに人間は寄り付かない。そこで友人の青鬼が一計を案じた。自分が村で暴れるから君は僕をやっつけろと。作戦は成功し、赤鬼は人間と親しくなる。その後青鬼を訪ねると、「ボクハ コレカラ タビニ デル コトニ シマシタ」「ドコマデモ キミノ トモダチ アオオニ」と記した手紙を戸口に貼って青鬼は姿を消した後だった。

 

 学校での解釈では、これは友情と自己犠牲の物語になる。大人の目で見ると、異文化を拒む共同体と異文化との交流を望む異形の物語とも読み取れる。

 

 赤鬼が人間と親しくなれたのは、彼らをだますことに成功したからではないのか。青鬼が旅に出たのはうそがばれるのを怖れたからではないのか。つまり、人間と鬼の間には本当の信頼関係は成立していないのである。

 

<赤おには、だまって、それを読みました。ニども三ども読みました。戸に手をかけて顔をおしつけ、しくしくと、なみだをながして泣きました>というラストシーンは、どう解釈するのか難しい。赤鬼が泣いたのは、かけがえのない友を失った悲しみなのか、人間にばかりかまけ、同胞を忘れた自分の浅はかさに気づいたからなのか。

 

 昔話に出て来る鬼は悪役が多かった。「桃太郎」「一寸法師」などはそれですね。この物語では、鬼に人間性が加わり画期的なものになっています。しかし、ここに出て来る人間たちはあまりに愚かで単純なようです。外見で相手を判断する。芝居にはだまされる。

 

 まるで、今の政治家を選んでいる国民の浅はかさを象徴しているようだ。