同じ作家とは思えない、この対極にある作品

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 作家はトルーマン・カポーティという人、これが代表作とのことだがあの有名な映画化作品「ティファニーで朝食を」という作品も彼の作品なのだ。

 

1959年11月、カンザス州ホルカム村で一家4人が惨殺された。その4人とは、大農場主のクラッター氏、妻のボニー、娘ナンシー、息子ケニヨンである。クラッター氏は宗教的な禁忌を守る人物で、一家に殺害される理由は見当たらない。全米を震撼させた実際の事件を取材し、資料の収集とインタビューに作者が6年近くをかけた作品である。ノンフィクション・ノベルの傑作とされ、また、一時流行したニュージャーナリズムの端緒を開くことにもなった。

一家の日常を1人ずつ掘り下げる一方、作者は2人の若者の動向を追う。ペリーとディックが事件の犯人である。被害者一家とは何の接点もない2人だったが、捜査官のデューイのもとにある人物からの密告が寄せられ・・・。

後半で明らかになる容疑者2人の成育歴と事件に至る経緯、とりわけペリーの悲惨な少年時代は目をおおうほどのものだった。しかし、有罪判決が下り、2人の死刑は執行される。ラストは絞首刑の現場に立ち会った捜査官デューイが回想する1年前のシーンである。

ホルカム村の墓地を訪れたデューイは、殺された娘のナンシーの親友で第一発見者だったスーザンに出会う。ゆかりの人の消息を語り、屈託無く笑って去るスーザンだ。<やがて、デューイも家路につき、木立に向かって歩を進め、その陰へと入っていった。あとには、果てしない空と、小麦畑をなびかせて渡っていく風のささやきだけが残された>。美しい自然描写で終わる。事件を描いた後の癒しとも思える作品のラストシーンのようだ。

時代に翻弄された女優

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 李香蘭こと山口淑子の波乱万丈な回想録を描いたのがこの本である。

藤原作弥との共著になっているが、題名通り山口淑子の半生記であり、彼女が生まれてから終戦を迎えて日本へ引き揚げるまでを描いたものとなっている。

1920年、淑子は中国遼寧省瀋陽(旧満州奉天)近郊で生まれた。後に撫順で育ったが父母とも九州出身の生粋の日本人だった。満州生まれで満州育ちの彼女が18歳で東京に旅するまでは祖国を知らなかった。そんな彼女が、どうして「中国人・李香蘭」になったのか?キッカケは、山口家と隣り合わせの李さん一家が中国式の友誼の誓いとして結んだ義理の血縁関係だったのである。その時もらった名前が李香蘭だった。

 女学校時代、ロシア人の親友リューバに誘われて、歌のレッスンに通ったことが彼女の運命を変えることとなった。奉天放送局にスカウトされ、ラジオで歌うことになったのだ。専属歌手の条件は、中国人少女で譜面が読めて、北京語と日本語が話せることでバイリンガルの彼女にはぴったりだった。ただし、日本人ということを除いてのことだった。これから先もスター誕生というより紆余曲折にもまれ、二つの国の間で翻弄された女性の昭和史というものだった。

<二つの国をー一つは祖国として愛し、一つは故国として愛して生きたつもりだったが、実はその二つの国同士は相対立し、戦っていたのだった>戦中の国策映画に出演したことを後に深く悔いることとなった。上海で迎えた敗戦、収容所に送られるも、死刑判決を免れたのはリューバが届けてくれた戸籍謄本のおかげだった。1946年3月、山口淑子に戻り、引き揚げ船に乗った彼女は<さようなら、李香蘭>とつぶやく。

<「夜来香」を聞きながら、私はその水面に揺れ動く虹をいつまでも見ていた>「夜来香」は彼女自身のヒット曲で、戦後もテレビ司会者や政治家として活躍した山口だが、この本はここで終わる内容になっている。

年下青年と人妻の恋

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 テレビドラマでは一番視聴率を稼ぐ題材ともいえる人妻と独身青年の恋愛を描いた小説、これが「クレーブの奥方」である。

舞台は16世紀の貴族社会、クレーブ夫人と独身のヌムール公は宮廷の舞踏会で出会い、お互い激しく惹かれあう。夫人は美しく貞淑な人妻、ヌムール公は野心家の美青年で、皇太子妃との仲も噂されていた。

<野心と恋愛とは宮廷生活の心髄のごときもので、男も女もひとしくそれに憂き身をやつしているのである>と語り手は述べる。これは中世の騎士道小説に由来する。

こうした中、「クレーブの奥方」だけが今日まで生き残ったのは、細緻な心理描写と悲劇的な展開による。夫のクレーブ殿に問い詰められた夫人はとうとう苦しい胸の内を明かしてしまう。嫉妬のあまり夫は心労がたたって死に、晴れて自由の身になった夫人は激しい後悔に苛まれる。

 <なぜあたくしがまだ自由だった時にあなたのことを聞き、婚約するまえにお会いしなかったのでしょう>と嘆く夫人と、<障害なぞないのですよ。あなたが勝手に私の幸福のじゃまをしておいでなのだ>となじるヌムール公だった。

しかし、夫人は公の求愛を拒み、田舎の別荘と修道院を行き来する生活に入る。<こうして奥方の一生は、それはかなり短いものだったが、ほかに類いのない貞淑の鑑としてたたえられたのである>と終わる。

愛しながらも、ヒロインが最後まで貞操を守ることが姦通小説の約束なのだ。

今こそ、青少年に読んでもらいたい

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 下村湖人作の有名長編小説です。太平洋戦争の始まった昭和16年に第一部の出版が、全五部までの長編シリーズ物です。

 

主人公の本田次郎は生まれてすぐに里子に出され、幼少時を乳母のお浜夫婦の下で育った。家に戻っても兄や弟となじめず、母のお民は次郎に厳しい。経済的に困窮した一家は家を売って小さな酒屋を開くが、次郎は母の実家に預けられ、やがて次郎に辛くあたったことを詫びて母は病没する。ここまでが第一部である。この後は、父の再婚、受験の失敗、浪人して入った中学での出会いと少年が成長し、社会性に目覚める過程を描いた教養小説なのだ。

 

 次郎の「愛されたい」という願望は、特異な幼少時に里子に出された経験がその人格形成に大きな影響を与えた。傍目には父にも乳母にも祖父にも十分愛されているにも拘わらず・・・。第四部までは、中学で出会った尊敬する朝倉先生が5・15事件を批判して学校を追われ、次郎も続いて退学する。第五部に入り、次郎は東京で私塾を開いた朝倉先生の助手をしながら私立中学に通う。彼は郷里の道江に恋する。でも道江は次郎の兄の恭一が好きなのだ。

 

小説は次郎のだらだらと書いた日記で唐突に終わる。<里子! 何という大きな力だろう>と、また<ぼくは、あるいは疲れすぎているのかもしれない。今日は、日記を書くのはもうやめよう>となって終わる。どこか道徳臭い匂いが漂うのは、教育者だった作者の視点があるからかも知れない。

今時の夫婦の見本を見るようだ

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 昔は、姦通といえば悲劇で終わるものが多く、小説でも既婚の貴婦人と独身の青年の道ならぬ恋は女性は貞操を守り女性が死ぬというものだった。この定型を破ったのがトルストイの「アンナ・カレーニナ」だ。

 

高級官僚カレーニンの妻アンナと、青年士官ヴロンスキーはモスクワ駅で出会い、お互いに強く惹かれあう。幼い息子の母であるアンナは、最初はヴロンスキーの求愛を拒んだが、二人の仲は進展しアンナは夫にすべてを打ち明ける。「もうあなたの妻でいることはできません」と、宣告された夫の決断は決闘でも離婚でもなく、黙殺だった。

 

だが、やがてアンナはヴロンスキーの子どもを出産、ヴロンスキーは退役し二人はすべてを捨てて外国へ出奔する。ロシアに戻り、田舎で新しい生活をはじめたアンナとヴロンスキーだったが、幸せは長く続かなかった。二人にとって田舎暮らしは退屈であり、気持ちにすれ違いが出始めたのだ。<あの人はほかの女を愛しているんだわ>と考えるアンナ、<いやはや!また愛情談義か>と顔をしかめるヴロンスキーである。ついに思いつめたアンナは鉄道に身を投げて・・・。一方で、ヴロンスキーに失恋したキチイと地方領主のリョーブィンとの平凡な恋愛と結婚も描かれている。

 

ラストはリョーブィンの述懐である。宗教と戦争の問題で悩んでいた彼は、妻子が無事でいることの幸せを噛みしめて考える。おれの生活は<疑いもなく善の意義をもっている><おれはそれを自分の生活に与えることができるのだ!>

 

平凡なのが一番という教訓なのか、例え不倫相手といっしょになろうが・・・。

 

清純路線の少女の物語をどうぞ

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 オールコット作のこの物語、ときは南北戦争の真っ只中で、少々気位の高い16歳の長女メグと男の子みたいな15歳の次女ジョー、引っ込み思案の13歳の三女べス、こまっちゃくれた12歳の四女エミイが登場人物のマーチ家四姉妹が経験する1年間の出来事が描かれている。

 

隣の屋敷のローリイと姉妹の出会い、その祖父ローレンス氏からべスに贈られたピアノや舞踏会に招かれたメグの後悔、戦地で病に倒れた父と父の元に赴く母のために自分の髪を売ってお金をつくるジョー、さらには母の留守中に猩紅熱でこん睡状態になるべスなどいろいろなことが起こる。

 

べスの病気が回復し、父母も戻って迎えた翌年のクリスマスは幸せな一家があることを描いた後で語り手は<メグにジョーに、べスとエミイがこうして一団となったところで幕が下りた。 / さて、この幕が再び上げられるかどうかは、ひとえに、この家庭劇「少女時代」の第一幕を、観衆がどう迎えるかによるのである>読者に拍手を強要するような幕引きだ。物語は「天路歴程」という本をガイドにして巡礼ごっこをしようという母の提案から始まっていたのだ。「巡礼ごっこというのは、結局わたしたちが良い娘になろうとする努力の別名ですものね」「天路歴程」というのは宗教色の濃い17世紀のピューリタン文学、姉妹が経験する幾多の試練は「巡礼ごっこ」という訳だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだまだ童話を読んで見て

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 今日の童話は、貧しい庶民の物語です。飢饉で日々のパンも手に入らなくなった木こりの一家、夫婦は子どもたちを森に捨てようと話し合っています。「そんなこと、わしはごめんだ」と渋る夫に「ばかだねえ。そんなこと言ってたら、四人とも、うえ死にしなきゃなりゃしない」とけしかける妻という設定です。

 

実母だった母を後にグリムが継母に変えたのは有名な話ですが、当時、口減らしのための子捨てや子殺しは前近代社会では実際に行われていました。貧しい家の子はたくましいものです。森に置き去りにされたヘンゼルとグレーテルも、自力で家に戻って来ます。前の晩に両親の会話を聞いていたヘンゼルの知恵で、家からの道々に白い小石を撒いて置いたのです。しばらくして兄と妹はまた森に置き去りにされます。

今度はパンくずを撒いたので、鳥に食べられ、戻れなくなってしまいました。ふたりが森の奥でパンの家を見つけ、悪い魔女につかまって・・・。とりわけ成長いちじるしいのがグレーテル、機転をきかせて魔女をパン窯の中に突き飛ばし兄を牢から救い出すグレーテル、帰路には鴨に川を渡してと交渉するなど、当初は泣くだけだったのとは格段の違いです。

一方、木こりは子どもたちを森に捨ててから<たのしい時はただの一刻もなく、それから、おかみさんは、死んでしまったのでした>。そこへ魔女の家から宝石を持ち帰った子どもたち<これで、苦労という苦労はすっかりおしまいになって、三人は、うれしいことばかりで、いっしょにくらしました>。自力で苦難を克服した経験が子どもを成長させるという話でもあります。

 

今の日本の世の中には、大変参考になるお話ではありませんか?

子離れと家族の在り方が問題を起こしている社会を何とかしたいお話でした。